【プロフィール】正解のない時代を生きる君たちへ。私が「キャリアデザインの本質」を語る理由

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PROFILE

正解のない時代を生きる君たちへ。

【プロフィール】正解のない時代を生きる君たちへ。私が「キャリアデザインの本質」を語る理由

私の経歴は、皆さんがイメージするきれいなキャリアではないかもしれません。
大学時代の起業に始まり、アメリカと日本でのサラリーマン生活、40歳でのシリアルアントレプレナーとしての起業、そして企業の売却(Exit)。
成功も失敗も、泥臭い現場も、華やかな金融の世界もすべて見てきました。
だからこそ、これから社会に出る就活生や、キャリアに悩む若手の皆さんに伝えられることがあります。
それは、キャリアは自分でデザインできるということです。

本編に入る前に、少しだけ前置きをさせてください。
実は私、キャピタリストとしての顔の他に、大手出版社の執行役員を務め、自分でも小さな出版社「言の葉を綴じる杜」を営む活字を扱う実務家としての顔も持っています。

人のキャリアとは、無機質な履歴書の箇条書きで語れるものではなく、その人が歩んできた汗と涙の結晶であり、一つの「物語」そのものです。
だからこそ、ここからの自己紹介は、あえて少し長い「物語風」に綴らせていただきました。
一人の編集者が自分の人生を振り返って書いた私小説として、しばしお付き合いいただければ幸いです。

01 学生時代の光と影

システム開発から事業売却、そして……

バブルの熱狂の中、私はまだフリーマーケットという言葉すら世間に定着していない頃にイベントを主催し、そこで稼いだ資金を元手に中古レコードとゲームを扱う専門店を立ち上げました。
店は大当たりし、すぐに多店舗展開へ。その時、セブン-イレブン鈴木敏文氏の著書を読み、これからは データを制するものが勝つ(POSシステムだ)と直感しました。

しかし、当時のPOSシステムは導入費が莫大。そこで私は「なければ自分で作ればいい」と、見よう見まねでプログラムを組み、オリジナルのPOSシステムを開発・実装しました。
これが、今でもちょっとしたシステムなら自分でコードを書いてしまう私のなかに眠るエンジニア気質の芽生えでした。
結果的に、この独自のシステムに興味を持った企業が事業ごと買い取ってくれることになり、私は学生にして最初の事業売却(Exit)を経験。莫大なキャピタルゲイン(売却益)を手にすることになります。

2. 【夜の学校】VIPルームでのOJT(On-the-Job Training)

昼は経営者として働く一方、夜はディスコでDJとして回していましたが、ここも私にとっては重要な学校でした。
VIPルームに呼ばれると、そこには企業の社長や役員の方々がくつろいでいます。
学生の私がそうした大人の世界に放り込まれ、日常的に会話を重ねる中で、私は誰を相手にしても気後れしない度胸を手に入れました。
さらに、そこで先輩からは会話のキャッチボールの極意(相手がもっと話したいと思う絶妙なタイミングで席を立つ駆け引き)も叩き込まれました。

若い頃は散々遊びましたし、ナンパも全力でしました。
しかし、そこで培った度胸と間合いは、今のM&Aや事業再編というハードな交渉の場面でも、私の最大の武器になっています。

3. 成功の代償と国外逃亡

ビジネスと遊びに熱中しすぎた代償は大きく、大学の単位は壊滅的な状態に。
「このままでは卒業どころか……」と追い詰められた時、私の手元には事業売却で得た資金がありました。

「よし、この金で逃げよう」

日本の大学に居場所がなくなった私は、当時のトランスファー(編入)制度を活用し、その資金を留学費用という名の逃亡資金に変え、アメリカへ渡ることを決意しました。

【💡キャリアのヒント】 「自分の領域を、勝手に限定しない」

「文系だから」「経営者だから」と、自分の可能性に線を引かないでください。
私は文系でしたがシステムも書きましたし、夜の街では度胸を磨きました。
重要なのは、目的のためなら手段を選ばない泥臭さと、未知の世界へ飛び込む好奇心です。
その両輪が、あなたのキャリアを唯一無二のものにします。

4. 憧れのNYへ(とおもいきや)摩天楼ではなくコヨーテが待っていた

行き先はニューヨーク州立大学(SUNY)。今のようにスマホで現地の様子がすぐ分かる時代ではありません。「NY州=マンハッタン」という大雑把な認識のまま、私は意気揚々と渡米しました。

頭の中に広がっていたのは、ドラマ『フレンズ』の世界。
レンガ造りのアパートメント、仲間と集まるカフェ、刺激的な都会の日常……。そんなドラマの主人公のような毎日を信じて疑いませんでした。

しかし、着いた先はシャンプレーン湖のほとり。地図上は確かにNY州ですが、そこはカナダ国境近くの大自然。
「夜に出歩くなよ」と忠告され、「ブルックリンみたいに危険なのか?」と身構えたら、「コヨーテが出るから危ない」と言われる始末。

想像していた生活とは真逆の、厳しくも静かな環境。
しかし、情報のなさゆえの「勘違い」と「逃亡」から始まったこのアメリカ生活こそが、後の私の価値観を決定づけることになります。

5. 【米国の洗礼】遊びの延長で就職した先は、散弾銃が待つ戦場だった

大学は田舎の寮生活。毎晩遊ぶわけにもいきません。
その代わり、Summer Break(夏休み)を利用して、現地のクラブでこっそりとアルバイトをしていました。ビザの規定など深く考えていませんでしたが、とにかく現場の空気を吸いたくて必死だったのです(笑)。

そこで意気投合した人物に「ウチに来いよ」と誘われたのが、航空会社などで知られるヴァージン・グループの音楽部門、世界的な大手レーベルであるVirgin Records(ヴァージン・レコード)のアメリカ法人でした。
日本の就活生のようにエントリーシートを書いたわけでも、面接対策をしたわけでもありません。遊びの延長線上で、気がついたら社員になっていたのです。

仕事は、当時アメリカで爆発的な人気になり始めていた野外フェスの運営。今では世界最大級となったコーチェラ(Coachella)の1999年の立ち上げにも関わりました。
音楽フェスというと華やかに聞こえるかもしれませんが、現場は荒野の戦場です。そこを仕切る地元のバイカー集団――少なくとも当時の私にはギャングにしか見えなかったコワモテの連中――との交渉が私の仕事でした。

日本のVIPルームで培った度胸など、ここでは通用しません。交渉が決裂し、散弾銃を突きつけられたこともあります。

「ナメられたら終わり」の極限状態。私は彼らとの間合いの取り方を、頭ではなく身体で覚えました。
日本で覚えた「駆け引き」と、アメリカで覚えた「命がけの交渉」。この2つが揃った時、私は本当の意味で「交渉のプロ」になれたのかもしれません。
02 帰国とM&Aの嵐

6. 【帰国とM&Aの嵐】税理士もお手上げの「自力確定申告」

その後、日本へ呼び戻され、シネマコンプレックス(複合映画館)の開発プロジェクトに飛ばされました。
しかし、ここからが本当のカオスでした。
当時、親会社の再編や買収(M&A)が繰り返されており、特に1992年のEMIによるヴァージン買収の影響で、日本サイドの東芝EMIなども絡む複雑な資本関係が生じていました。
雇用主は明確でも、出向につぐ出向で「報酬がいったいどこから支払われているのか」が複雑怪奇に入り組んでいたのです。

極めつけは確定申告です。
あまりに複雑な海外収入と資本関係に、アメリカの税理士は「日本の税理士に頼んでくれ」とさじを投げ、頼みの綱である日本の税理士も「こんなケース見たことがない」とお手上げ状態。

「誰もできないなら、自分でやるしかない」

私は必死で税法を勉強し、自力で申告を完遂しました。
大変な思いをしましたが、この時、複雑怪奇な権利関係や税務を紐解いた経験が、皮肉にも今のキャピタリストとしての実務(IPO支援や企業再編)に大いに役立っています。

その後、行き場を失いかけた私を「俺のところに来いよ」と拾ってくれた大学の先輩の縁で、大手ビールメーカーへ入社することになります。
アメリカでの就職は「勢い」、日本での転職は「縁」。
私はまともな就職活動を経験していませんが、だからこそ断言できることがあります。

「キャリアは、机の上ではなく、現場と人との縁で作られるのだと」

キャリア支援をしている私が言うのも変ですが、「アメリカでは、どこかで経験を積んでからでないと雇ってもらえない」という厳しい現実(鶏が先か卵が先か問題)を肌で知っています。
だからこそ、私は「スキル」と「縁」の大切さを、誰よりも強く伝えられるのです。

▼【キャリアのヒント】 「スキル」と「縁」が、キャリアの両輪

ハードな交渉の場や、組織図がぐちゃぐちゃになるようなカオスな状況こそが、あなたをタフにします。
誰もやり方を知らないなら、自分で調べてやればいい。その姿勢があれば、複雑なM&Aも税務も乗り越えられます。

しかし、実力だけでは突破できない壁もあります。
アメリカには「経験がないと雇わないが、雇われないと経験が積めない」という鶏が先か、卵が先かの厳しい現実があります。私はそれを肌で知っています。
一方で、日本では人の縁がキャリアを救うこともあります。

最後に助けてくれるのはエントリーシートではなく、目の前の人と築いた信頼関係です。
いざという時に自分を助けてくれる確かな実務スキル(私の場合は税務や交渉)と、手を差し伸べてもらえる信頼(縁)。
この両輪を持っておくことが、あなたのキャリアを盤石なものにします。

03 40歳からの起業、そして未来へ

7.【40歳からの起業】野菜を「草」と呼んだ素人が起こした革命

大手メーカーで、ワインメーカーのTOB(株式公開買付け)に関わり、世界中のワイナリーを回っていた時のことです。
ポートランドで開催されたワインの祭典(IPNC)で、私は現地の圧倒的なマーケティング手法に衝撃を受けました。
「本場のフランスではなく、アメリカの新興地がこれだけの熱狂を作っている……」
直感的に「これを日本でも水平展開したい!」と思い立ち、私はワイナリーを立ち上げるべく、40歳で起業を決意しました。

先輩に紹介された土地へ移住しましたが、当時の私は農業に関しては完全な「ど素人」。
野菜に興味がなさすぎて草(くさ)と呼んでいましたし、キャベツとレタスの区別さえつきませんでした。
当然、栽培方法なんてわかりません。そこで私は、地元の農家さんにある交換条件を持ちかけました。

「栽培方法を教えてください。代わりに、私があなたの野菜を高く売ります」

私を含め、当時の創業メンバーはメーカー出身。農業は素人でも、流通と販売のプロでした。
当時は業界のタブーだったJAを通さない直販ルートを開拓し、常識を無視して突き進みました。

この独自のモデルが注目され、ある時、元ゴールドマン・サックスの重役がメンターとなり、私に財閥型経営(ポートフォリオ・マネジメント)を叩き込んでくれました。
「一本足打法は危ない。事業を分散させろ」と。

その真価が問われたのが、2年連続の台風直撃です。
畑は壊滅し、私はニュース番組で被災農家としてテレビデビューすることになりました(笑)。
しかし、経営はびくともしていませんでした。なぜなら、事前に構築していたポートフォリオ・マネジメントが機能し、他の事業が利益を生んでいたからです。

その筆頭が、農家レストラン「農家の台所」です。
当時流行していた「俺のフレンチ」などを参考にしつつも、単なるモノマネではなく、自社に合わせて最適化しました。
シズル感を出すためにビニールハウスで営業しようとして保健所と大揉めしたりもしましたが(笑)、最大の目玉はAKB48システムの導入です。

推しの農家を応援する「農家総選挙」を開催し、お客様が食べることで農家を応援する仕組みを作りました。
これは単なるイベントではありません。農家自身がブランディングされ、ファンがつけば、野菜の価値が上がります。
「農家が潤えば、そこから手数料をいただく私の会社も潤う」
全員が勝てるエコシステムを構築したのです。

また、地域課題であった獣害問題に対しても、単なる駆除ではなくビジネスとして向き合いました。
「ジビエがお金になれば、ハンターも増え、結果として獣害も減る」という市場原理で解決に挑みました。
私自身が狩猟免許を取得し、市場開拓に奔走したのです。

そして、集客とオペレーションの課題はテクノロジーで解決しました。まず、地元振興イベントとしてレンガ壁にプロジェクションマッピングを投影。イベント激戦区の京阪神エリアで5万人を動員し、大きな話題を作りました。
ここで「最新技術の使いどころ」を学んだ私は、そのノウハウをレストランへ転用します。

少人数オペレーションゆえの提供の遅さをカバーするため、お皿に小さなコックが料理を作るアニメーションを投影する「テーブルAR」を導入したのです。
待ち時間さえもエンターテインメントに変えたことで、店はテレビ取材が殺到する「予約の取れないレストラン」へと成長しました。
「農業=自然任せの博打」という常識を、エンタメとテクノロジー、そして金融仕込みの戦略で完全に覆したのです。

この実績が評価され、後日、なんと京都大学農学部で農業経営の講義をさせていただく機会を頂きました。
かつて野菜を「草」と呼び、キャベツとレタスの区別もつかなかった男が、最高学府の教壇に立つ。
それは、「素人でも、戦略と行動力で世界を変えられる」ことを証明できた、何よりも感慨深い瞬間でした。

8. 【Exitの真実】3000億円企業のオファーと、残された宿題

事業は順調に拡大し、ロシアや台湾での合弁事業に加え、ベトナムのダナンではコンビニ用のおでん大根を作るなど、グローバルな展開を進めていました。

また、拡大の一方で直面したのが、地方の事業承継の現実です。
後継者不足で廃業寸前だった老舗酒蔵の経営を引き受けたのもこの頃です。
「誰かがやらなければ、地域の文化が消えてしまう」
地方には、皆さんが想像している以上に根深い承継問題があることを、私は身をもって知りました。

そんなある日、売上規模3000億円という桁違いの上場企業から「会社を譲ってほしい(M&A)」というオファーが届きました。

私は悩みました。
「会社を売ると言ったら、社員はどう思うだろうか?」
「『裏切り者!』と罵られるのではないか……」
創業社長として、社員の雇用と心情に対する責任感に押しつぶされそうになりながら、意を決して全社員に発表しました。

すると、社員たちから返ってきたのは歓声でした。
「やったー! 明日から僕ら、上場企業の社員ですか!?」

拍手喝采で喜ぶ彼らを見て、私は思いました。「俺の悩んだ時間を返せ!」と(笑)。
しかし、これは私が作った会社や人材が、社会的に高い評価を得た証でもありました。

Exit後も、私は売却先の企業に残り、香港やシンガポールを拠点に海外アグリ事業やM&Aを統括していました。
グローバルに活躍する日々。しかし、私の心にはある「しこり」が残っていました。
それは、酒蔵の経営や農業の現場で目の当たりにした、地方が抱える深刻な課題(承継問題や人口減少)が頭から消えていなかったからです。

そんな折、あるヘッドハンティングの声がかかりました。
提示されたのは、地域経済活性化支援機構(REVIC)でのファンドマネージャーというポジション。
かつてJAL(日本航空)の再生を手掛けた組織の流れを汲む、半官半民の再生ファンドです。

「自分一人が成功しても、地域そのものが沈んでしまっては意味がない」

その以前からの想いとオファーが合致し、私は転身を決意しました。
自分の会社だけでなく、日本全体の地域課題を解決するために。

▼【キャリアのヒント】「点と点が、いつか線になる」

私は農業音痴でしたが、流通という武器を持ち込むことで勝機を見出しました。
そして、元ゴールドマン・サックスの教えであるポートフォリオ・マネジメントを実践したことで、畑が全滅しても会社は成長し続けました。

目の前の仕事(栽培)に情熱を注ぐのは大切ですが、経営者やリーダーは常に「それがダメになっても生き残れる仕組み」を作らなければなりません。
感情や勢いだけでなく、冷静な構造を作ること。それが持続可能なキャリアと組織を作ります。

そして、振り返ればキャリアは「点と線の物語」です。
学生時代のPOS、VIPルームでの度胸、米国での交渉、農業での革命。一見バラバラな経験が、今のキャピタリストとしての私を支えています。
全力でやったことには、必ず意味が生まれます。
焦らず、目の前の「点」を打ってください。その伏線は、必ずどこかで回収されるのですから。

9. 【独立の決断】コロナ禍の焦燥と、RCDCに込めた哲学

REVICではファンドマネージャーとして地域課題に向き合っていましたが、突如としてコロナ禍が世界を襲いました。
すべての案件がペンディング(保留)となり、身動きが取れない日々。
REVICは半官半民の組織です。「何もできないのに、給料をもらっていいのか?」。
地方企業が疲弊していくのを目の当たりにしながら、ただ待つだけの状況に、私は強烈な心苦しさと焦りを感じました。

「待っていてはダメだ。自分の足で立たなければ」

その想いで私は独立し、Research Concept Design Capital LLC(RCDC)を立ち上げました。
この社名には、私のこれまでの失敗と成功、すべての哲学が込められています。

かつての私はまずは行動(Action)の人間でした。しかし、無鉄砲な行動だけでは失敗することも痛いほど学びました。
一般的なPDCAサイクルにおいて、多くの人はDo(実行)やAction(改善)を急ぎがちです。しかし、私が数々の失敗から痛感したのは、C(Check=検証)と、そこに伴う深いリフレクション(内省)の重要性です。

徹底的な検証と内省なしに、次の成功はありません。
だからこそ、私の会社ではあえて「Capital(資金)」を最後に持ってきています。

  • Research(リサーチ): 徹底的な調査と、市場・自己へのリフレクションを行う。
  • Concept(コンセプト): そこから勝てるコンセプトを練り上げる。
  • Design(デザイン): 持続可能なビジネスモデル全体を設計する。
  • Capital(キャピタル): 最後に、必要な資金を投じる。

この順番(R→C→D→C)こそが、私がたどり着いた持続可能な経営の方程式です。
この考え方の根幹にあるのは、あの農業時代にメンター(元ゴールドマン・サックス)から叩き込まれたポートフォリオ・マネジメント(リスク管理と全体設計)そのものです。

かつて私がメンターから授かった「勝てるエコシステム」を、今度は私が、日本の地域企業やスタートアップに還元していきたい。
現在、私はこのRCDCのメソッドを用い、キャピタル(資金)の側面からIPO支援や企業再編を行い、企業の価値向上を手掛けています。

「資金」はガソリンに過ぎません。大切なのは、それをどこへ向けて、どのような車(デザイン)で走らせるか。
その設計図を描き、次世代へバトンを繋ぐことこそが、私の本当の仕事なのです。

10. 【次世代への還流】常識を疑え!強みをずらせば、世界は変わる

そして今、私は多忙な実務の傍ら……と言いたいところですが、実はそうでもありません。タスク管理が徹底されているので、意外と時間は作れるのです(その秘訣は私の著書に書いてありますので、しれっと宣伝しておきますね笑)。

その空いた時間で何をしているかというと、就活塾の講師として学生に向き合っています。
手前味噌ですが、私の教え子の内定率は100%です。

なぜ、現役のキャピタリストがこれを行うのか。
それは、私自身が多くの失敗と成功を繰り返す中で痛感した経済エコシステム(循環)の大切さを伝えたいからです。

私が培ったリサーチや戦略、ポートフォリオの考え方を、惜しみなく若手に手渡す。
すると、かつての教え子が社会で活躍し、アルムナイ(卒業生)として、また私とビジネスをするパートナーとして戻ってくる。
そんな新しい循環が、実際に生まれ始めています。

キャリアに正解はありません。しかし、戦略は必要です。
海辺で波を待ち、山で獲物を狙うハンターのように、好機を見定め、自分の足で人生を切り拓く。
……これは単なる比喩ではありません。
私は現在、宮崎県に移住し、サーフィンやゴルフを楽しみながら、東京や世界の仕事をリモートでこなしています。
場所にも時間にも縛られない。そんな自律したキャリアは、実現可能なのです。

最終的に目指すべきは、自分が得た経験と富を次世代へ還流させ、新たな経済のエコシステムを作ること。
私が野菜を「草」と呼ぶ素人から、京大の講師になれたように。
常識なんて、脆いものです。
大切なのは、自分の持っている強み(武器)を、どの場所(フィールド)で使うか。

「強み(武器)をずらせば、
常識は覆せる」

これが、私のキャリアデザインの結論です。
さあ、次はあなたが、自分の足で人生を切り拓く番です。

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